2010/10/01 (更新日:2010/10/01)
義足のハイジャンパー、駿河台大ハンド部の監督に就任
9月30日(木)
【スポーツ最前線】
交通事故で右足を失ったが、義足の走り高跳び選手として北京パラリンピックに出場した鈴木徹さん(30)が、4月から駿河台大学(埼玉県飯能市)の男子 ハンドボール部で監督を務めている。自ら陸上選手を続けながらハンド部の監督を引き受けた決断の裏には、片足を失ったことをきっかけに到達したある人生観 があった。
鈴木さんは高校時代、ハンドボール選手として活躍。国体3位などの成績を残し、スポーツ推薦で大学進学が決まっていた。
人生が一転したのは、高校卒業を間近に控えた平成11年2月。深夜、同級生3人を乗せてドライブ中にガードレールに激突する事故を起こした。居眠り運転が原因だった。同乗者は軽傷だったが、鈴木さんは1週間後、右足のひざ下11センチ以下を切断した。
「ショックを超えていた。何より、ハンドボールが続けられるか心配だった」
事故から約3カ月後、初めて義足をつけて歩いた。「幼い子供のようにしか歩けない」と愕然(がくぜん)とした。結局、全力疾走ができないため、ハンドボールを断念。大学も1年間休学することになった。
持ち前の運動神経を発揮できない現実に「絶望感を感じていた」が、あるとき、転機が訪れた。
リハビリ中、スタッフの勧めで義足をつけてゆっくりと助走する走り高跳びに挑戦してみた。1回目で当時の日本記録をクリア。その瞬間、「これなら日本代表としてパラリンピックを目指せる」とひらめいた。
大学に戻り、日本のトップレベルの選手が集う陸上部に所属した。コーチからは「他の選手と同じように指導する」といわれ、「練習についていくのが本当にきつかった」が、着実に力をつけていた。
卒業後もプロ選手として競技を続け、2008年の北京パラリンピックでは5位入賞。現在は自己ベストを2メートルに伸ばし、ロンドンパラリンピックを目指して練習に励んでいたが、昨年3月、出身高校と同系列の駿河台大学からハンド部監督への就任要請を受けた。
「選手生活と両立できるのか」と不安もあったが、「いつか監督になりたいと思っていた。今断ったら次はないかもしれない」と引き受けた。決断の裏には、「後悔はしたくない」という人生観があった。事故で片足を失い、もがき苦しみながら到達した境地だ。
監督就任と同時に発足した同部は今期、関東学生リーグで最下部の7部から5部まで昇格。選手には「自分の中で壁を作らないことを教えたい」という。右足 を失ってからの人生で「やってみないと分からないことがある。まずやってみて、ダメならやり方を変えればいい」と感じたのだ。
事故について、今では「悲惨な経験だったがいろいろな世界が見れた。こっちの人生のほうがよかった」と心から言える。今後も、選手と監督という二足のわらじを履く忙しい生活を送る。 (ニュースより)